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シナリオライター空下元 個人サイト

GRAY-POOL サイドストーリー「日照時間」

GRAY-POOL サイドストーリー「日照時間」

 

 

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「水切れ」

 

汗ばんだ背中が、彼のTシャツを吸いつけて離さない。
べっとりと張り付いたTシャツの色は不幸にも白で、うすい肌色が透けて見える。

日差しの強い、夏の昼前。
彼の歩いている上り坂の歩行者道路にある日影といえば、20メートル間隔で出現する街路樹しかない。
民家の塀はちょうど西側にあり、通路の東側には車様の道路があるだけ。
後ろから桜色の日傘を差した若い女性が靴音を響かせずに歩いてくる。
そして、いつものように悠々と彼を追い抜いて行った。

また笑われたと彼は思った。

彼女は毎日のように彼を追い抜き、時々振り向き微笑むことがある。
被害妄想かもしれないが、彼は彼女に馬鹿にされているような気がしてならなかった。

彼としては何か一言言ってやりたい気持ちで一杯だが、日頃ゲームばかりやっていて運動不足だという事実の方が一杯になった気持ちから溢れ出ていたので、黙って見送ることしかできなかった。運動なんて1学期の授業が終わってからしていないような気がする。

それにしても今日は暑い。

昨日と同じ事を思いながら彼は少しペースを緩めた。
髪を切るのを忘れて少し長くなった黒髪は熱を篭らせているし、風もあまり吹かない。
視線の先に見えるのは坂道の頂点で逃げる水。そこから降りてくる光を反射させる車たち。
耳に嫌でも侵入してくるのは、通路の西側に位置する家々に滞在している蝉たちの聖歌。

どうしてこんな時間に歩いているのだろうか。
いつも考えることだが、これは義務だ。呪いと言ってもいいかもしれない。
とにかく、彼は夏の一番暑い時刻に向かわなければいけない場所があるのだ。
それはこれからもずっと続くものだと彼は諦めてさえもいた。
ただ、それしか選択肢が見えなかったということに気づく暇もなく。

 

 

茶色の絵の具に墨を一滴垂らしたようなくすんだ色の瓦屋根が見えてきた。
上り坂を終え、5分ほどしたら見えてくる静かな住宅街の中にその家はあった。
2階建ての木造住宅。庭を広めにとってあるらしく、石造りの塀から母屋までの距離はけっこう遠い。塀を構成する石は大人なら跨げる程しか詰まれていない。残りの構成員はコーティングされた鉄の柵だ。ここだけ木造建築とはミスマッチである。

しかし、そのおかげで彼はお目当てのものを見ることができる。
庭の中、道路に近い場所に組まれたレンガの花壇。そこに植えてある黄色い太陽。

ひまわりだった。

彼は目的地に向かう途中、いつもひまわりを眺めていく。
これといった理由などはない。目の前に太陽を浴びて元気そうにしているひまわりを見ていたら、いつの間にか習慣になっていただけだった。
習慣とはあまり変化のないものである。しかし、今日は違っていた。
ひまわりの横に少女が立っていたのだ。

茶髪気味の髪を後ろで束ねている。まだ膨らみかけの胸が青いノースリーブのシャツの中に納まっている。背の大きさは150センチ程度しかないひまわりに負けているため、小学生という印象を与えた。
少女は手にスケッチブックと色鉛筆を持っていた。夏休みの宿題の定番である観察日記でもつけるつもりなのだろう。だが、少女はひまわりをじっと眺めているだけで絵を描き始める準備さえしていない。

突然、少女が彼いる方向に視線を向けた。思わず目が合ってしまう二人。
彼はなにもしていないのだが、急に逃げ出したくなり足を動かそうとした。

「待って!」

少女が声をかける。それに素直に従って彼は動くのを止めた。

「なにか用か?勝手に人の家を覗き込んでいたのは謝るけど」
「うん。それは犯罪だからあとで警察にチクルとして、ちょっと頼みたいことがあるんですけど」

何故か上目使いで彼の返答を待つ少女。

「まあ、内容によるかな。言ってみな」
「お兄さん、ずっとこのひまわりを見ていたでしょう?夏休み入ってから。おばあちゃんが言ってたの」
「ば、ばれていたのか。それはあまり気持ちのいいもんじゃないって言ってただろう」
「ううん。おばあちゃんは庭を見てくれる人がいてうれしいって言ってたよ」
「それはよかった。それで俺はひまわりをずっと見ていたことが自他ともに確認されたわけだが、それがどうかしたのか」
「あたしの日記を手伝ってほしいの!」

と、少女は白紙のスケッチブックを彼の目の前に突き出した。

「なるほど、いままでの観察日記をさぼっていたわけか。それで途方に暮れていたわけだな」
「うん。でも、この時間にいつもひまわりを眺めている男の人がいるっておばあちゃんが言ってたからチャンスだと思って」
「まあ、俺も勝手に見ていたしな、それぐらいなら手伝ってやろう」
「本当!やったぁ」

てへへと笑う少女。一瞬、”紅葉”の幼い頃の笑顔がだぶって見えた。

「でも、大丈夫か?家の人とかいるんじゃないか」
「大丈夫、おばあちゃんは買い物に行ったから」
「そうか。まぁ少しぐらいなら大丈夫……かな」

そして、彼は少女の案内のもと、初めて塀の中に入っていった。

 

少女は「岡地 久美」と名乗った。

両親のどちらの親族だか知らないが、とにかく祖母が住むこの家で夏休みの2週間を過ごすのだという。
夏休みの宿題は生き物の観察。そこでどうせだから庭に生えているひまわりを観察しようとしたはいいが、そこは学生の悲しい定め。宿題なんて後回しにしていたらひまわりが健やかに育ちすぎてしまったらしい。

そして、久美の宿題を手伝うはめになった彼は「橘俊介」と自己紹介をした。
総合教育施設中等部1年。小学3年生の久美と比べるのは少し無理があるが、周囲の同学年の人間と比べれば大人びている雰囲気をもつ少年だった。

「こんなもんだろ」

夏休みに入ってから今までの成長過程をおおまかに書いたスケッチブックの切れ端を渡す。
二人が座っている縁側には麦茶が二つ。ちりりんと気まぐれに風鈴が鳴くだけで、後は静かなものだった。

「これを元に天気の変化やちょっとしたアクシデントを入れて日記を完成させるんだ。平凡に書いていたんじゃばれる。これは人生の先輩からのアドバイスだ」
「でも、絵はどうするの?」
「しょうがないから、成長の段階ごとの絵を描くんだ。絵の手本なんて図書館に行けば置いてあるだろ」
「なるほどー。メモメモ」

俊介が先ほど渡した切れ端に書き込む。

「さて、それじゃあ俺は行くとするかな。おばあさんに麦茶おいしかったと言っておいてくれ」
「えー、帰ってくるまで待っていればいいのに」
「俺も行くところがあるからお前の家の前を通りがかっているんだぞ」
「毎日、どこに行ってるの?この辺にあるのは総合病院しかないよ?」
「その、病院だよ」
「なに?どこか悪いの?怪我してるの?」
「ま、まあな……」
「どこ、どこ、どこ?」

目を逸らして俊介は答えた。しかし、久美は鼻息を荒くして詰め寄ってくる。
しまったと思った。久美あたりの年代の子供はなにかおもしろそうな出来事があると食いついてくる。いままでの言動から活発なイメージがある久美に話題を逸らしても逆効果だったと俊介は今更ながらに後悔した。

「その、俺が病気なわけじゃないんだ。俺の知り合いが入院していてな」
「入院!それって重傷?助かるの?」
「ああ、命に別状はないさ。普通の病気とは違うんだ。お前には言ってもわからないと思うけどな」
「なに?なに?言ってみて」

好奇心に満ちた瞳が俊介を見つめてくる。
その姿はやはり、”紅葉”に似ていた。

「あいつは……心の病なんだ。現実と空想の区別がつかない」
「精神病っていうヤツ?テレビでやってたよ」
「ああ、そうだ。昔、事故を目撃してな。それがトラウマになってしまった。それ以来大量の血を見るとおかしくなってしまうんだ」

そう、昔は紅葉も久美みたいに俺に笑いかけてくれた。
わからないことがあれば俺に尋ねてきた。

「なのに、紅葉はもう戻ってこない。俺のせいだ。俺があの時……」
「お兄ちゃん?怖い顔してる」
「あ、ああ。すまない」

なぜ、久美にこんな話をしているんだろう。
久美の姿が紅葉に似ていたからだろうか。
自分の行いを誰かに話したかったのだろうか。
わからない。こんなにも弱気になっていたのだろうか。

「とにかく、俺は行かないといけないんだ。じゃあな」
「あ、明日も来てくれるよね?おばあちゃんも喜ぶと思うよ」
「そうだな、寄らせてもらうよ」

そう言って俊介は久美に別れを告げた。

塀の外に出るとき、ひまわりが俊介の目に飛び込んできた。
さんさんと照らされる太陽を浴びて元気一杯に育つひまわり。青い空に映える黄色い花弁。
物言わないひまわりはただそこに存在し、俊介を見送った。

 

 

蒼月紅葉というネームプレートがはめ込まれたドアを閉め、病室を後にする。
今日の紅葉は比較的落ち着いていた。普通に会話もできただろう。
もっとも、”現在の俊介”を認識することはできてはいなかったが。

「今日はもう帰るの?」

白を基調にした清潔感あるれる病院内。
案内放送や機材の音など音はするのに静かだという印象を与える廊下で、聞き覚えのある女性の声が俊介にかけられた。
見れば看護服に身を包んだ背の高い女性、紅葉の担当看護婦のひとり「瀬西直子」がそこにいた。

「はい。紅葉のことよろしくお願いします」
「わかったわ。安心してお姉さんに任せなさい」

胸を手で叩いてアピールする直子。使い古された表現だが、俊介はそんなわかりやすい直子の仕草は好きだった。

「それにしても毎日すごいわね。ご家族でも毎日お見舞いに来ないというのに」
「まあ、昔から俺が保護者みたいなものですから」

紅葉の家族は正直危うい状態にあると言えた。度重なる不幸に耐えられるはずもなく、両親は毎日喧嘩ばかりしている。幼馴染で、紅葉の両親とも交流の深い俊介が代わりにお見舞いに来るのは自然な流れであった。
しかし、俊介にはもうひとつの理由がある。罪という鎖が俊介を放さないのだ。

「また、暗い顔してる。そんなんじゃ紅葉ちゃんも不安になっちゃうでしょ?」
「はぁ、すいません。気を抜くといつも暗い表情になっているみたいで」
「気を張り詰めないと笑顔になれないというのも考えものね。もっと楽しいことにも目を向けないと人生終わるわよ。まだ若いんだし」
直子が笑顔をみせる。それが素なのか、それとも励ますために作っているのかは俊介にはわからなかった。
「でも、俺は……」
「はいはい。思いつめない。紅葉ちゃんとなにがあったかは知らないけど、相談に乗るぐらいはできるからもうダメかなと思ったら気軽に声をかけなさいよ」

そう言って直子は去って行った。

窓の外の景色を眺めてみる。
外は夕日によって一色に染め上がっていた。このまま太陽は静かに役目を終えるだろう。
今日も一日が終わろうとしていた。

 

 

「風で折れる茎」

 

「知ってた?ひまわりって太陽のある方向に花びらを向けるんだよ」

今日も俊介は久美の家に寄っていた。
縁側には上がらずに、庭にあるひまわりの前で久美と話をしている。
久美の祖母と話しをしたが、笑顔を絶やさない印象のよい老婆であった。久美のことを話すときが一番元気がよく、それだけで久美に対する愛情の深さを知ることが出来た。
今はその老婆からもらった水羊羹を久美と俊介の二人で食べながら観察日記偽装の経過について話を聞いているところだ。

「俺はこれでも中学生だぞ。それぐらい知ってるさ。でも、十分に花が開くと東向きに固定されるんだ。目の前のこいつもそうだろ。それが本で調べた結果か?」
「なーんだ。知ってたのー。大発見だと思ったのにな」
「そういうことを書けばいいんだよ。大発見だとな」

もっとも、それで担任が驚くはずもないが、微笑んではくれるだろう。それで久美が馬鹿にされたらその担任が悪い。そんなヤツは教育委員会にでも訴えれば済むことだ。
「それにしても今日はわりと涼しいな。昨日なんか汗でびっしょりだったのに」
涼しいおかげで日傘の女性に笑われずにここまで来れたと俊介は心の中で付け加えた。
「雲が出てきているからね。午後には雨が降り出すかもっておばあちゃんが言ってたよ」
「雨ね。どうしようかな、傘持ってきてないぜ」

そう言って俊介は久美のことを見る。
すると久美はわざとらしくため息をつき、わかったわと傘を持ってきてくれた。
一回り小さく、おまけに色が真っ赤だったということにはこの際、目を瞑るしかなかった。

「それにしても、えらいよね。太陽って」
「太陽が偉い?なんでまた」
「ひまわりは太陽を浴びて元気になる。太陽はただそこにいるだけなのに、元気を与えてくれる。それって偉いと思わない?ボランティア精神溢れてるー」

鼻息を荒くして俊介に迫る久美。
俊介はただ、子供らしい発想だなぁと思っただけだった。

 

紅葉の病室は実にシンプルなものだった。
クリーム色の壁に、白い天井。
木で出来た棚にはお見舞いで持ってきた大小さまざまなクマのマスコット人形が黙って座っている。
昨日の太陽の温もりがまだ残る新しいシーツ。それをかぶせたベットに黒い髪を肩で切り落とした少女がひとり座っている。
そして、その横には2脚の椅子があった。
ひとつは俊介の座る椅子。もうひとつはさくらの座る椅子だ。

「ねぇ、さくら。わたしここにいても暇なんだけどー。遊びに行こうよ」

首を縦に振るさくら。その後言葉を紡ぐ。

「それ本当?だったら早くお外に行こうよ」

紅葉の目が期待に輝き出す。そして満面の笑顔を向ける。
そう、実際は誰も座っているはずのない椅子に向かって。

 

紅葉の妹であるさくらは2年前に交通事故で死んだ。それも紅葉の目の前で。
それ以来、紅葉は大量の血を見ると事故をフラッシュバックし、精神の安全を図るために逆行してしまう。さくらと遊んでいた2年前に。
当然、その当時のままの姿をしてる同年代の友達は少なく、紅葉がわかるのは大人たちの顔ぐらい。もっとも、紅葉を変な目で見ている同級生が見舞いに来ることはなかった。
紅葉の逆行は原因がなければいけない。それは映画のスプラッターシーンでも、アニメの戦闘シーンでもよい。だが、それさえ見せなければ問題はなかった。

ただ、今回入院した原因というのが悪かった。

さくらが死んで一ヵ月後の夏。男子生徒の喧嘩がエスカレートし、片方の生徒が相手の腕にコンパスを刺したのだ。
何度も何度も穿たれる穴。血飛沫が飛び散る教室内に不幸にも紅葉と俊介はいた。そこで紅葉は傷ついた生徒の前で笑っていた。さくら、さくらと死んだはずの妹の名前を呼び続けながら。
その事件の後、教室には3つの空席が出来た。ひとつは入院し、そのまま転校した被害者の席。ひとつは施設側が事件をもみ消したために生まれた加害者の席。そしてもうひとつは紅葉の席だった。
それ以降、紅葉は入院生活を余儀なくされている。
たまに回復の兆しを見せることはあっても、すぐに元に戻ってしまう。医者の話によると紅葉自身が現実と戦わなければ治らないらしい。そうして、2年が過ぎていた。

 

「なあ、紅葉。外を見てみろ。今日は曇っているだろう。もうすぐ雨が降るんだ」

そう言って俊介は買ってきたオレンジジュースの缶を紅葉に渡す。

「雨?だったら遊べないねー。どうしたらいい?オニイチャン」

紅葉はお返しに光の宿っていない視線を俊介に向けてきた。
無意識では俊介のことを認識しているんだろう。だが、表層に出てくるときは”親切な見ず知らずのオニイチャン”としか認識されない。紅葉の世界は2年前のままで止まっていた。

「どうしたらいいって言われたもなぁ。ここで遊ぶしか……」
「え?なるほど、それはいい考えだね」

紅葉が頷く。俊介に対してではない、居ないはずのさくらに対して。

「オニイチャン、お外を晴れにしてよ」
「え?外を晴れにするのか、俺が?」
「そうだよ。できるでしょ?」

紅葉が俊介の次の言葉を待っている。
確かに、俊介は幼い頃の紅葉やさくらに手品みたいな真似をしていた。その中には明日の天気を予言するというものもあった。俊介にしてみれば父と一緒に見ていた天気予報をそのまま喋ったに過ぎないが、紅葉たちにとっては魔法みたいなものだったに違いない。そのときの印象のまま紅葉は俊介の力を信じている。
だが、今の俊介には天気を変える魔法など使えるはずはなかった。

「すまない。それは俺には無理だ。だから、ここはこのまま……」
「嘘。できるでしょ?曇り空をお天気にするぐらいできるでしょ?」
「俺にはできないんだ。そう、誰にもできないんだ」
「嘘!俊介ならできたもん。そうだよ、俊介ならできたんだから!!」

頭を激しく振り、拒絶する紅葉。

「紅葉……!」

抑えようとした俊介の頭に、紅葉が投げた缶が当たった。
鈍い音とともに、目の前に落ちてくるジュースの缶。
缶が視界を遮り、そして晴れた時には紅葉は俊介のことを睨んでいた。
まるで俊介が”俊介”を殺したのだと訴えるように。

「出てって!早く出て行け!!」

涙を流して取り乱す紅葉が、駆けつけた看護婦によって抑えられたのは2分後のことだった。

 

 

俊介は渡されたアイスパックを頭に当てて冷やしながら、病院の廊下を歩いていた。
窓から見えるのは雲が厚くなり、暗くなり始めた外の世界。
いまにも涙を流しそうな憂鬱な景色がそこにはあった。

ふと、視界の隅に通路の分岐点である十字路に、直子が同僚の看護婦と話しながら歩いている姿が目に入った。俊介のいる通路ではなく、左折して先に進む直子。
俊介は思わず追いかけていた。
誰かに助けてもらいたかったのかもしれない。直子は昨日、相談に乗ると言ってくれた。気休めにしかならないだろう。だが、それでもいいから誰かに今の俊介の気持ちをわかってもらいたかった。

直子たちの背中に近づく。それにつれて、彼女たちの会話も耳に入ってきた。

「そういえば直子、紅葉ちゃんの部屋に行く時間じゃなかった?」
「え?ああ、いいのよ適当にやっていれば。どうせ時間通りに行かなくてもあの子は覚えてないんだから。それより、明日の合コンなんだけど……」
「……おいっ!」

俊介の声に、直子たちが振り向く。

「あら、俊介君。なあに?何か用?」

いつものように笑顔で俊介に接してくる直子。
その時、俊介の中で何かが崩れた。

「いえ、なんでもないです」
「そう。ならいいわ。おねえさん、今忙しいからまた明日ね」
「はい。紅葉のことお願いします」

それだけを言って、俊介は彼女たちと別れた。

翌日、天気は大雨だった。

屋根や道路に集中砲火を浴びせる天の気まぐれ。跳ね返り、溜まり、流れていく雨粒。
玄関のドアを開けて最初に耳に入ってきたのは車が水溜りを切り裂く音だった。
風が吹き、夏独特の生暖かい空気が俊介の身体とTシャツの間をすり抜けていく。
俊介は正直、迷っていた。いや、天秤はすでに傾いている。
もはやどうでもよかった。紅葉はどうせなにをしても治らないのだ。

すべて俊介の自己満足なんだろう。
さくらが死んだのは俊介のせいだった。俊介の投げたボールを追いかけてさくらは交通事故に遭った。だから、責任は自分にある。さくらが死んだのも、紅葉がおかしくなったのもすべて俊介のせいなのだ。
だから、紅葉を見舞うことは義務だった。自分に架せられた鎖だった。
少しでも治る手助けになればいいと思っていた。
だが、現実は脱出どころか同じ場所を永遠に巡っているだけ。
このまま紅葉は治らないのだ。そう、治ることはない。
なら、行っても無駄なのではないだろうか。
こんな大雨の日にわざわざ病院に行くことなんてない。

玄関のドアを閉める。それで雨音は遮断された。

傘を傘入れに入れようとすると、赤くてかわいらしい傘があることに気がついた。
久美のおかげで昨日は濡れずに帰ることが出来た。
もう、久美の家に行くこともないのかもしれない。
こんな雨の日に久美は間の抜けた誰かさんに傘を貸して、自分が困っているかもしれない。
そうなったら困る。久美も、そして傘を借りている俺も。
だからこれは返しに行くだけなんだ。最後になるかもしれないから。
何故か、自分にそう言い聞かせて俊介は玄関のドアを再び開いた。

 

大雨のせいでくすんだ瓦屋根がよりいっそう黒さを増している。

見慣れた岡地家も、止め処なく振ってくる雨という衣装を被っていると雰囲気が違った。
まさにそこは重かった。雨水を大量に含んだ針葉樹林のような暗さと重さ。
庭には水溜りが大量にできている。忙しなく波紋を広げては違う波紋に相殺されている。
さすがに今日は久美は外に出てきていないらしい。家の中で祖母と一緒に過ごしているんだろう。

門を開けようとした俊介は、ふと、ひまわりに目をやった。

ひまわりは雨の中、ただひたすらに風のなすがままにされていた。
大きな花の割りに細めの茎が今にも折れそうになりながらも耐え続けている。
光の加減で深緑色に見える葉っぱは、捲れながらも千切れることはなかった。
そして黄色い花。花は黙って東側を向いていた。
そこに太陽が出てくることを信じて、同じ一点を見続ける。風で曲がっても再び東を見つめる。何も言わなくても、誰にも通じなくても花は太陽を見ていた。
幼い頃は太陽を追いかけて、今は太陽を信じて動かないひまわりの花。
ただ、そこにいるだけで元気を与えてくれる太陽を信じて。

「いけなーい。ひまわりが折れちゃうよ」

寝坊をして、大雨対策をし忘れていた久美が玄関に出てくる。

「あれ?なんだろう」

ひまわりの花壇の近くの柵には赤い傘が掛けられている。柵の外の道路には大きめの黒い傘が開いたままで放置されていた。

 

「日向き葵」

 

今日も、天気は快晴だ。

入道雲が遠くに見える真夏日。最高気温をまた更新したそうだ。
汗でべとつく背中、むわっとしたアスファルトの熱。
蝉はここぞとばかりに自己をアピールする。はたして合格者は何匹いるのだろうか。

「お兄ちゃん、邪魔」
「あ、ああ、すまない」

いつの間にかひまわりと久美の間に割り込んでいたらしい。
久美は縁側で色鉛筆を使ってひまわりの写生にいそしんでいる。

「それにしても、ひまわり成長しないよー?もう終わりかなぁ」
「もしかしたらピークなのかもな。あとは鳥たちに食われる運命か」
「えー。そうなの?もったいない。おばあちゃんが種は食べれるって言ってたよ」
「そうそう。健康にいいらしいぞ。炒って食べろ」

久美がなにやら鉛筆を止めて、遠くを見ている。ひまわりの種をどう食べようか妄想しているのかもしれない。

「それまでに枯れないといいけどな」
「枯れるわけないじゃん。お水だってあげてるし、太陽は今日もカンカンなんだよ?」

と、手をサンバイザー代わりにして太陽を見上げる久美。

「だよな。太陽がある限り、ひまわりは元気に育つよな」
「うん。当たり前だよ」

今日も太陽は惜しみなく、ただそこにあるだけで生き物に恩恵を与えている。

「さてと、俺は行くかな」

背伸びをして、俊介は歩き出した。

「そういえば最近嬉しそうだけど何かいいことあったの?」
「ん、ああ。あいつが俺の目を見て俊介って呼んでくれたんだ」
「よくわからない」
「そうだなぁ。お前が帰る前までにあいつを連れて来るよ。多分お前と馬が合うはずだから」
「もっとよくわからないけど、楽しみにしてるね」
「おう。期待しておけ」

俊介はガッツポーズを作って久美に応えた。

 

次の日、俊介が見せてもらったひまわりの観察日記には「小さい蕾が出てきていた」と書いてあった。

 

END